藤枝市で開業した生きるチカラ塾!私が教師を辞めた理由。※後編

藤枝市で開業した生きるチカラ塾!私が教師を辞めた理由。※後編

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※中編の続きです。まだご覧になっていない方は「前編」からぜひご覧ください。

 

好きな人たちの前で無理して笑顔でいるのは辛いものです。

それでも6年生たちと一緒で自分自身も学校が変わるのを分かっていた(初任者は通常3年で他校へ転任する決まり)ので、新たな環境になれば新しい刺激と出会いでまた心が持ち直せるかもしれないと思い、その期待だけを胸に卒業式まで頑張りました。6年生たちは皆立派に巣立っていきました。その姿は一生忘れることはないでしょう。

新たな学校に転任し、やる気いっぱいでしたが、やはりだんだんと気持ちが落ちていくのを感じました。

9月のある日、出勤中に吐き気がし、車を道路の脇に停めたところで嘔吐してしまいました。突然のことで、頭はパニックになりました。当然出勤できる状態ではなく、有休を使いました。その後、人生初の診療内科に行くことになりました。

そこで言い渡された結果が「適応障害」でした。えっ?!まさか自分が?!と驚きました。基本的に嫌なことがあっても一晩寝れば気にしなくなるタイプだったので、予想外の診断結果でした。

そこからは診断結果を学校に提出し、約半年間のお休みをいただきました。

休みになった1カ月目は、ただた家でゆっくりしました。2カ月目には資格を取ろうと思い、勉強&資格を取りました。3ヶ月目に、このまま教師を続けるのか、辞めて違う道に進むのか考え始めました。家族にもたくさん相談にのってもらいました。特に妻の寛容さには本当に感謝しています。

数カ月考え抜いた結果、これから続けていても自分が教育界に抱いた疑念は晴れないのかもしれない。それに目を瞑って残り30年続けていける自信もなければ、俺が教育界を変えてやる!と思えるほどの熱意もないと感じました。それならば保護者の方に受け入れられるかは分からないけれど、自分のしたい教育をするためには塾を立ち上げるしかない。そのためには教員を退職するしかないという結論に至りました。

これが私の教師を辞めた理由であり、おおよその過程です。

 

前編~後編まで、ご覧いただいた皆様、本当にありがとうございました。駄文で読み辛かったと思いますがどうかご容赦ください。(*- -)

 

次回は、塾を立ち上げるに至った経緯について語ろうと思います!

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