
今回は私が教師を辞めた理由についてお話ししようと思います。少し暗い内容になってしまうところもあるかとは思いますが、ご了承ください。
私は令和4年3月31日をもって教師を退職しました。講師4年+初任者として3年、計7年間同じ小学校に勤め、その後、静岡の学校に交流という形で異動になりました。
結論から言うと、適応障害を患ってしまったことをきっかけに、自分が本当にしたい教育について考え直したからです。先に申し上げておきますと、教員同士のいざこざや担任した子たちとのトラブル、ひいては保護者とのトラブルが原因ということは一切ございません。お世話になった先生方や担任した子達、その保護者の方々はみな本当にいい人で、担任した子たちについては全員可愛すぎるし今でも大好きな存在であり私の誇りです。かっこつけた風に聞こえるかも知れませんが、ここでかっこつけたって何にもなりません。全て本音です。
では、どうして適応障害を患ってしまったのか等について以下で述べさせていただきます。長くなるかと思いますが、ご容赦ください。
講師の4年間は教師になりたいという思いでがむしゃらに頑張っていました。家庭ももっていたので、とにかく教員採用試験に受からなくては!早く安定した仕事に就かなくては!家族を安心させなくては!とこの4年間は毎日こんなことを考えていました。
そしてやっと教員採用試験に合格した私は嬉しい気持ちもありましたが、安堵の気持ちが1番大きかったように思います。当時の主任は私の合格を泣いて喜んでくれたことは今でも心に残っているし、一生忘れることはないと思います。
念願の教師に正式に採用された私は1年目、死ぬ気で頑張ったのを覚えています。自分でいうのもなんですが本当に頑張っていました。なぜなら、念願の教師になったというのもありますが、合格したときにはもう三十路だったので、今までの遅れを取り戻したいという焦る気持ちが大きかったからです。遅くまで残ってクラスの子どもたちの反応を予想しながらする授業づくりはとても楽しかったし、やりがいもとても感じていました。
しかし、今思い返せば、転機は2年目に起きたと思います。仕事に慣れてきたこともあるでしょう。周りがかなり見え始めてきたように思います。そうすると自分のしたい教育ができているのかということを考えるようになってきました。少し具体的にいうと道徳教育です。年間35時間やることが義務付けられました。ただでさえ時間割がいっぱいいっぱいのところにそれが入ってきたのです。しかも増えた分何かが減るということもありませんでした。それなのに国は「働き方改革が~」なんていうんです。早く帰らせたいのに仕事量は増やすの?と正直疑問に感じるところは多々ありました。
でも、道徳教育を通して様々な考えに触れることで、物事を多面的多角的に考えられるようにすることについては賛成だし、他の教科にもつながっていくことなので、多少思うところはあったものの、子どものためになるならばとすんなり受け入れられました。
しかし、35時間やるという条件以外にも条件があって、その条件がどうしても受け入れられませんでした。その条件は何かというと道徳の教科書を使ってその教科書の順番に授業をするということです。
この条件がどうしても受け入れられませんでした…
だっておかしいじゃないですか。クラスの実態が違うのにどうして教科書の順番にそって授業をしなければいけないのか。例えば隣のクラスは思いやりのない行動をする傾向が多いとして、自分の担任するクラスにはルールを守らない行動をする傾向が多いとしましょう。その場合、私の個人的な考えでは、隣のクラスはまず「思いやり」についての授業を、そして、私のクラスでは、「規律」についての授業をすべきだと思います。
「思いやり」についてやらないと言っているわけではありません。実態の応じて順番を変えるべきだと言っているのです。
そうは思いつつも、組織に属している以上、好き勝手はできません。だから私は、自身が納得していないのにも関わらず仕方なく授業をしていました。もちろん納得していないからって教材研究で手は抜きません。しかし、子ども敏感、どうしても私の気持ちが伝わってしまうものです。そうなるとお互い納得しないままなんとなく授業が進んでいくのを感じました。
悪循環に陥りました。
※話はまだまだ続きます。次回もご覧ください☻